函館おしま病院ボランティア

 

 

 

 

 

2012年の今でこそ、ホスピスの認知度は高まり北海道内でもその名前を聞くことが珍しくなくなりました。

2002年、函館という地方都市ではたいへん珍しい耳慣れないことばだった「ホスピス開設」を使命として奔走し、その後の10年間でホスピスを医療として文化として根付かせ育てたことは驚嘆に値します。

院長も理念に共感したスタッフも、相当な信念をもっていたにちがいありません。

私たちの恩師の何人かが、ここでその人らしく最期を迎えたというお話を聞き、わたくしは函館におけるホスピス開設が意義のあるものであると確信しました。またその中には、ホスピス開設に尽力した当時の事務長ご自身もいらっしゃいました。 [ ホスピスを作ることに尽力した前事務長の追悼記事はこちら? ]

 

さて、最近フェイスブックに現事務長が紹介してくれた記事があります。画像をクリックしてみてください。フェイスブックではシェアするというのですが引用させてもらいました。

 

 

 

 

今ではホスピスボランティア「ミント」も組織されその活動が紹介されるようになったんですね。

すばらしいことです。

自分の親が、あるいは、自分自身が安心して最期を迎えることができるような場所をつくっていただいたことに感謝します。

はこだて、いいですね。

 

 

 

人の話をよく聞きなさい

私が中学一年生の時に32歳の先生が担任になりました。

藤井昭夫先生といいます。もうこの世にはいません。

先生からは、私たちの仲間はいろいろなことを教わったと思いますが、振り返ってよく大きな定規でたたかれたこととか、拳骨(ゲンコツ)で思いっきり頭をゴンとやられたこととかそんな話題がいまだに繰り返されます。

わたしも拳骨でやられたほうですからよくその痛さは覚えています。その痛さは、今になって感謝しきれないほどありがたいのですが昨今の教育の報道などを見ていると、殴られたことを喜んで話す私たちは、「昔のヒト」の分類に入りつつあるのかな、と感じます。

一年生になってすぐだと思うのですが、藤井先生から、『 人の話をよく聞きなさい 』 と教わりました。

これは、今でも当時教わってよかったと思うことです。教えてもらって、もう35年たちますが、この間に人の話を聞けないことで不利益になっていく人をたくさん見ました。 たぶんその人たちは、中学の時に藤井先生に出会っていたら人生は変わったかもしれませんね。 真剣にそう思います。

自分たちが14歳のとき、校庭にタイムカプセルを埋めて碑を建て、20年後の再会を誓いました。いわゆる立志の集い。
「まさか20年後がこんなに早く来るなんて」という思いで再会する機会を作ってくれたのは、藤井先生とこの学年団の先生たちでした。

それからたった5年後、藤井先生は帰らぬ人となってしまいました。
もうすぐ10年が経とうとしています。

  • 藤井昭夫先生
  • 立志の集い
  • タイムカプセル

これらのキーワードでインターネット検索をしたらしっかりと結果が出るように記録したいものです。

■以下は、先生が亡くなった2000年11月6日に、私が同期のメーリングリストに投稿したメールです。
子供に人の話を聞きなさい、と藤井先生から教わったはなしを話すときなど、情景としていつも思い出します。

____________ ここから ____________

以前紹介した青春の詩をかなり意訳したものですがこちらの方がわかりやすい。

立志の集いのときに私がこの一行目を引き合いに出してお話ししたとき、大きくうなずいてくださった藤井先生を思い出します。
計画性がなく、行き当たりばったりだった私をよく導いてくださった先生に感謝です。

さとう
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若さとは
サミュエル・ウルマン

若さとは人生のある時期のことではなく、心のあり方のことだ。
若くあるためには、強い意志力と、優れた構想力と、激しい
情熱が必要であり、小心さを圧倒する勇気と、易きにつこうと
する心を叱咤する冒険への希求がなければならない。

人は歳月を重ねたから老いるのではない。理想を失うときに
老いるのである。歳月は皮膚に皺を刻むが、情熱の消滅は
魂に皺を刻む。心配、疑い、自己不信、恐れ、絶望——-
これらのものこそ、成長しようとする精神の息の根をとめてし
まう元凶である。

六十歳になろうと十六歳であろうと、人間の心の中には、驚異
に対する憧憬や、星や星のようにきらめく事象や思想に対す
る驚きや、不屈の闘志や、来たるべきものに対する子供のよう
な好奇心や、人生の喜びおよび勝負を求める気持が存在する
はずなのだ。

人はその信念に比例して若くあり、疑いに比例して老いる。
自信や希望に比例して若くあり、恐れや絶望に比例して老いる。
大地や人間や神から、美しさ、喜び、勇気、崇高さ、力などを
感じ取ることができるかぎり、その人は若いのだ。

すべての夢を失い、心の芯が悲観という雪、皮肉という氷に覆
われるとき、その人は真に老いるのだ。そのような人は、神の
哀れみを乞うしかない。

____________ ここまで ____________

医療法人敬仁会 函館おしま病院理事 長浜さん

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7年ほど前の2001年、現函館おしま病院理事 長浜康平さんと初めて会いました。渡島病院から、函館おしま病院へと組織が変わっていく過渡期でした。

?

現院長の 「 ホスピスを函館に作る 」 という強い想いのもと、長浜さんの果たした功績は、あまりにも大きく、あまりにも素晴らしいものでした。

私がかかわったのは枝葉のほんの切先にすぎませんが、長浜さんが関わったのは、大きな幹の部分でした。時にうらやましくも、自分にはできない実務でのご活躍でした。

事務長として、どんどん辞めていく旧職員の退職金の手当てや、病院組織の改革、病院機能評価受審の準備、補助金の交渉などなど、その忙しい仕事ぶりは、将来へ道筋をつけるという信念があればこそ成し遂げられたものだったと確信しています。

体調を崩した連絡があり、先日、5年ぶりにお見舞いと称して、お顔を見ることができました。

私がお見舞いに向かったのは、ご自身がバックアップして作り上げたそのホスピスです。

開口一番、『もっと前にはいっておけばよかった。自分がかかわったホスピスに入るのは、はばかられた。
でも体調が本当につらかった。 病院の理念『 癒し癒される心からの医療』については、自分がこのホスピスに入って、はじめて 「 癒される 」 、ということがわかった。 』 と、こうおっしゃいました。

前日まで、痛みで食べ物も食べられず起き上がることさえできなくなっていたのに、このホスピスの痛みをとる技術、癒しの心は本物だ、と手放しの褒めようでした。
実際、長浜さんと話ができた小一時間の間、満面の笑みを通してくれました。
その笑顔は、快復への少なからぬ期待を感じさせるものでした。

癒されたのは、こちらかもしれません。
その長浜さんが、
本日 2008年7月23日水曜日 眠るように息を引き取られたという連絡が、先ほど入りました。

謹んでここにご冥福をお祈り申し上げます。

長浜さん、お疲れさまでした…
ゆっくりお休み下さい。

2008.07.23

医療では誰が顧客か

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ずっと疑問に思っていたことでした。

 

サービス業ではお客さまがいて、お客さまに思いを馳せてあれこれと動く。

これが普通の話です。
医療だってサービス業ですとは言ったもののお客さまって誰のことなんだろう。
そんな事がわからなかったんです。

試行錯誤の中で、「お大事にどうぞ。ありがとうございます。」
と言ったこともありました。でもなんか変でした。

私としては、数ある調剤薬局の中からウチの薬局を選んでくださってありがとう、というつもりでしたが、患者さまが具合悪くなって病院にかかって、院外処方箋をもらって調剤薬局へ行き、そこで「ありがとう」では、

『私が病気になってつらいのに、この白衣を着た薬剤師はニコニコしながらありがとうといっている。これではまるで自分が具合が悪いことでコイツを喜ばしているみたいだ』

と思われても不思議がないことなんですね。

そんなとき、ある勉強の場で、「患者さまは、つらくて病院にかかるわけですから、やはりお客さまではありえません。顧客はその患者さまを取りまく周辺の人々です。」と発言された看護師さんがいて、私は今までの疑問が氷解するような思いがしたことを覚えています。

患者さまがつらい思いを話してくれたときはつらい思いを共有・共感し、しっかりとその思いに耳を傾けて聴くことを大切なことと教えてくれた友人医師がいます。
まさに病医院と調剤薬局は同じ患者さまに接するわけで、患者さまが主役たりうる環境を作るのは薬局も同じなのです。

ついこの前まで、顧客として患者さまを見てきた自分を反省しつつ今、この文章を書いています。

2003.07.24